そんな考え方、間違っていたのかな?
高校を卒業してから、私は、やたらと男性を傷つける自分、というものを意識するようになりました。
むしろ勉強できた方がモテたのではないか?と思われる高校時代。
大学に入って、女性の可愛げなるものを始めて意識させられたように思います。
それまでは、とりあえず正しければなんでもよかったけど。
私に言われたわけではないけれど、女子って、いつもお花やケーキのこと考えているものだと思っていた、と言った、中高一貫校の男子高出身の同級生の言があったとかなかったとか聞きました。
地方から出てきた男子からは、どうも普通の女の子と違う、と言われました。
そして、就職し、一緒におられた、校種は違うものの、大先輩の奥様とよくお話しするころには、
確かに、好きな人に、自分が授業をするところを見せなくはないですね・・・。
と言うに至りました。
家庭か仕事か?
一番悩み多き時代を生きてきた世代ではないかな?と思います。
可愛いか、そうでないか?いや、ルックスの方ではなくて。
最近は、捨て身で発言しているような場面もあり、かといって、先日もラフカディオ・ハーンの『心』を読んでは大和撫子のこころに心酔し、私の中にも、両極端な自分がいて、それを「大和撫子とひまわり」という文章に書いたこともあります。
私には憧れている人がいます。
その強さにおいて。
たぶん、私の知る限りでは一番強い人ではないか?と思います。
いえ、いつも、なんだかんだ発言してるとか、私にいつも注意する、という側の強さではありません。
芯の強さ、というようなものです。
だいたい、強い人って、いつもは優しそうで穏やかで、見分けられない人からすれば、あの人は大丈夫、とか思われそうです。
そういう人って、いざというときにはとんでもない発言をして、誰も何にも言えない、というような人だと思うのです。
講義や授業をしている人たちが、普段から話す、ということばかりではないでしょう。
教壇に立てば、ということもあるだろうし、人前で話さなければならない時だけに表れる勇気というものもあると思います。
かつて、多弁という言葉に辟易したことがありました。
なんとかかんとか身に着けた話し方というものもあるでしょう。
臆病だった自分と闘うように、一生懸命に話せる人になった可能性だってあります。
表層しか見ない人を私は信じません。
我が息子を目立ちたがりの一言で表現した人もおられましたが、実はおとなしい息子が、人のためになら、おもしろいことの一つや二つ言おうか・・・?と思っていることもわかっていました。
人の本質というものが少しはわかる人間でありたい、と思っています。