勘違いしないでほしい・・・。
決してその言葉を発する人が嫌いなわけではない。
そして、おそらくは、その人の言っていることは正しいのであろうけれど、そうして、結局そうなるのではあろうけれど、とりあえず自分の気持ちを尊重してほしいなあ、と思うことがあるだけである。
私がふと思っていることについて、あなたは○○なのは嫌でしょう?とか、本当にそういうことできると思っているの?(この表現あまり伝わらない。むしろできるできない、というより、そういうことに耐えられるの?というニュアンスかな?)など、人間だから、間違ってもいいし、ちょっと横道にそれてもいいのではないか?と思うのだけれど、そういう、私が、間違ったことをしそうになったとき、いや、間違いとまでは言えないから、ちょっと、その人から見て、ありえない、と判断されたことについてけん制されるのが困るのである。
だいたい、本人が、これは違う、と実感しなければ、それはそうは思えないのであって、間違っていても、仮につらい想いしても、やってみたいことはやってみたいのだと思う。
辛い思いする権利もある。
一人の人間だから。
危ないことをする権利もある。
一人の人間だから。
私の人生の中で、そうそう道徳的でないことなどほとんどなかった。
言わば、そののち結婚することになる先輩との恋愛くらい。
恋愛を道徳的でないなんて言ったら、怒られそうな。
もっと間違ってみたかったな、そして、もっと弱さをさらけ出せたらよかったな。
なんて思う。
息が詰まりそうな話である。
と、書いていて今思った。
目の前で自習している生徒にも言ってしまった。
たくさん失敗して、寄り道もして、何だったら、ぐっちゃぐちゃな恋愛して、めちゃくちゃになって、それが人生というものかもね・・・、と。
まあ、ストレートに行くことを良いこととされる風潮ではあるけれど、寄り道できたり、あるいは回り道できたり、良くないことと思ってはいても、そのことにのめってしまったりできるって、いいことなのかもしれないな、と思う。
結婚式のときに、主賓として来ていただいた、先輩の先生(奇しくも高岡のご出身の方だったけど。)が、これからは走ってばかりでなく、時には立ち止まって考えることも・・・、と言ってくださっていたけれど、たしかに疲れるほどに突っ走ってきた人生だったと思う。
だから、いつでも明日死んでもいい、と思ってきた。
いつも全部し尽してきたから。
別にやり残したことがあるとは思えなかった。
もう少し間違ってみたい。
もう少し遠回りしてみたい。
もっと人間関係的に、大喧嘩するとかしてみたらよかった。さっさと逃げてばかりいないで。
仕事でやり合ったことはあっても、プライベートでなら、よほどしつこくされなければ、謝るか、さっさと逃げてきた。
説明させられるまでは、絶対対立しない。
こういうの良くないなあ。もっとあれこれしておけばよかったなあ。
先日までは、あれこれやって来たと思っていたから、そんなこと思うとは思わなかったけど、私はまだまだやり残したことがたくさんある。
まだまだ可能性を閉ざしてしまうことなく、失敗も恐れることなく、いろいろやってみたい。
とりあえずは若者とバドミントンをすることから始めよう!