しあわせを感じるには感受性が必要であると思わます。
どんなにしあわせだと思える要素がたくさんあったとしても、それを感じることができなければ、しあわせにはなりません。
周りから見て大変であったとしても、本人がしあわせを感じていたとしたら、小さなことでもしあわせを感じることができるます。
物に溢れていて、いつでも好きなものを買うことができたとしても、その物から、素敵だという感じを持てなかったとしたら、それはしあわせにはつながりません。
俵万智さんの歌に
君と食む三百円のあなごずしそのおいしさを恋とこそ知れ
という歌があります。
私は、しあわせとはこういうものだなあ・・・、といつも思います。
一人で食べたら、なんてことないアナゴ寿司なのかもしれない。
バブル期の300円のあなごずし、しかも東京で(俵万智さんだから、東京ということに勝手にしてますが。)、特段どうってことないお食事だったことでしょう。
私は、浜辺か公園で、二人が寄り添って、割り箸を使って、食べているところを想像してしまいます。
大好きなあなたと二人で食べているあなごずしは、特別おいしい・・・。
と言っている歌です。
なんてことないものが特別においしく感じる・・・。
それが恋の力です。
とはいえ、俵万智さんは、歌を作るためにだと、徹底的に嘘をつく、とおっしゃっているように、これは、サラダ記念日のように、単身赴任中で、同居されていたお父様のことかもしれません。
この、徹底的に嘘をつく感覚は、文学をやっている者には、正直よくわかる感覚で、普段の社会生活の中での嘘とは違います。
誰にも迷惑を掛けない。でも、その世界は大きく変わります。
まだ私は、噓を突こうと思うほどの作歌をしたことはありません。
というより、そこまで、作歌にちからをいれているわけでも、真剣でもなく、その時の自分の気持ちを整理するために歌を作っているようなものなので、そこまで創作に真剣になったことなどないのです。
でも、とりあえず、この三百円のあなごずしがとんでもなくおいしくなるような生活をすることは可能です。
それはぜひとも実践したい私です。