私が子どもなんですか?

時折、そう、人生の中で、時折、とんでもなく理不尽な目に遭うことがある。
身に覚えのないことで、それはそれは批判され、人格否定され、もうむちゃくちゃにがなり立てられたということが、数回はある。

高校の同級生たちで集まっていた時、ストーブを囲みながら、みんなで小学校のときいじめられたという話で盛り上がっていた。
それから、小学校の先生との葛藤も同様にあった。ピアノのレッスンから逃げた、という、とんでもない前科を話し、故意にすることはなくても、しようとしたことは思い当たる・・・、というような話もあったっけ。

ちょっぴり勉強ができなくもない女子高生たちが、まったくここまでおんなじ経験するの?というくらい、おんなじ経験をしていた。

先日、尊敬してたし、誇りにもしていたのに、その自分の気持ちを汚された、と4歳年下の女性に言われた。
どこに行っても、「あなたの○○さんは・・・。」と言われてきた、とも告白された。

正直、身に覚えがないのである。

小さいときから可愛がってきて、何かあったら、庇ってきて・・・。
女は結婚し、子どもを持ったら変わる、というのは通説ではあるけれど・・・。

その手の感情に、無縁なので、正直わからないのである。

ある人に、「私、子どもなんでしょうか・・・?」
とお訊ねしたら、
「いや、普通とちゃう?○○さん、子どもやろ。」と相手の女性のことを言われた。
いい年して、子ども?
こんな年まで、もし想像しているような感情で動いているのなら、それはそれでしんどいなあ、と思いやってしまう。

私は、ありのまんまの自分と付き合っているような気がする。
したいことはしたいし、できることで役に立てたら嬉しいし。
多分、おへちゃでも、別に器量よしでなくても、私には私のいいところがあるし・・・。
人とは比べない。

彼女に言いたいのである。
別に、少しばかり勉強したから、みんなと仲良くしてきたんじゃないし、好かれたりしたわけじゃないよ。
もし、誰かが、褒めてくれたのなら、学校なんか関係ない。たぶん、何か役に立つことをしたとか、人のことをを好きになるように努めたとか、何か言葉を掛けたとか、そういうことじゃないかな、って。
だって、同じ学校出身でも、寂しい思いしてきた人いっぱいいるし、自分も勘違いして寂しい想いもしてきたよ。

多分、人は、何かができるから、好かれたりするんじゃないと思う。
第一、世の中の人全部に好かれるわけないし、もしも、誰も嫌ってもくれなかったら、それはそれで何にもしていないことになる。
ときに誰かに嫌われるくらいでないと、何にも世の中に働きかけてないことになる。
好かれたり、愛されたりしたかったら、まずは誰かを好いたり、愛したりすることだと思う。
それは、できれば、無私の心で。できれば無償の気持ちで。
そうしたら、愛されるのかもしれないね、と本当は言いたいのである。
でも、全員に好かれたら、怖いやろなー。

先日、もう、ママになった教え子と再会した。
まだまだお嬢さんな彼女を、ママと慕って、お子さんは、ママを大事そうに見つめている。
まだまだ可愛い彼女も、しっかりお母さんの表情である。
母親の愛情ってすごいなあ、と思った。
たかだか、ようやく私が教壇に立った年と同じの年頃の若い女性を、しっかりしたママに仕上げてしまうのだから。
子どもは、絶対に親の味方。
世の中の誰が親を批判しようとも、絶対に自分の親を守ろうとする。
開校してから、何度かそんな場面に出会ってきた。
いざとなったら、いつもは批判的な親のことをサッと庇う。
ああ、これが親子なんだなあ、と思う。