まあ、ある程度確信がもてるまで、きっと人を信じようとするだろうし、それに、ある日突然くっきりはっきり見えるようなところがある。
実は、先日の面談のあと、発覚したことについて、驚きあきれたことがあった。
親御さんから、まるで問題児扱いされているお子さんが、私にとっては全然問題児に思えない。
悪い人間として響かないのである。
その日も、まあ、ちょっと良くない事件として話していたのだけれど、いや、ちょっと違うなあ・・・、それは真実ではないな、と思っていたことがあった。
親御さんとも一致して、その子がどうしても悪くない、という見解に達していた。
いや、事柄からだけなら、まあ、百歩譲って悪い、ということにもなるだろう。
でも、違うな・・・、と感じていた。
次の日、正直、その子のまっすぐさを使って、だれがよくないことをしていたのか、はっきりわかることがあって、私は正直呆れた。
人間って、こんなことをするんだ・・・。
この年にして、ずいぶん年若い人から、学ばされた。
私はきっと危なっかしい人間に見えてるだろうな、と思うときがある。
でも、意外に騙されないのである。
どこか冷静で、そう、かなり熱く見えるだろうけれど、どこかに冷静な面をもっている。
かつては冷たい、と表現されたこともあったし、熱くなれない自分と闘っていたりもしたから、今はずいぶんと熱くなれる自分が
生きてる感じがして嬉しい。
自分のプライドを守るために、誰かを使って、自分の立場を守ったり、そのために誰かを陥れたり、あるいは利用したり・・・。
今回は、むしろ、そうされた人を可哀想に思ったのではなかった。
そうした方が、無性に情けなかった。
なんで?
私が怒るのは、これまた冷静。
私の仕事を邪魔したから。
私の、大学受験において、志望校に合格させる、という目標の間で、私を欺いたから。
それが本人であっても、私は許せない。
された側のことを、私もされたことがないとは言い切れない。
でも、たぶん、私はそこまで積極的に信じない。
どこか冷めてる。
生徒に訊いてみた。
生徒が言うには、先生は、そこまで人を信じ切らない。
そうなんです。
生徒指導の要諦。
信じて、どこかで信じ切らない。
でも、普通は、自分を信じてくれた人を、裏切ることができるものではない。
普通の人は・・・。
でも、自分を信じてくれた人を裏切ったら、私の経験上、裏切った側に良くないことが起こる。
少々の挫折や失敗など、誰だって、ひっくり返すことができる。
少々裏切られたり、傷つけられたりしたところで、自分が頑張ればいい。
でも、裏切った側には、しっかり傷跡が残るんだな、これが。
因果応報とはよく言ったもので・・・。
まっすぐした人は、人を疑わないから、使われやすい。
実は、この春、私を使おうとして人が、私にささやく言葉を聞いた。
けど、すぐに私は本当のことがわかった。
そんな私を、櫻井先生は鋭いなあ、と言ってくださった人がいらっしゃるとお聞きした。
確かに人を見る目はあるような気がする。
どこかで気づいてる。
何が起こっているのかも。
ふと、鮒のあたりのように気づいた瞬間の、あれっという引っかかった感じを、意外に覚えている。