昨日は、朝から、ある方の取材をし、午後から指導の合間に面談をしたり、電話での面談もあり、また、指導・・・。とはいえ、中三生の模試があった分、なんだか教室は静かだった。
昨夜、疲れているはずなのに、久しぶりに一冊読めた。
稲盛和夫『心』。
本をちょっと整理していて、ある意味存在を忘れていた。
尊敬する稲盛さんに、失礼だけれど、出版された日時を見て、納得だった。
その本を購入して、その直後から、私は、また、違った方面からビジネスを学び出していたからである。
会社法がある。
会社法を読んでいると、一社の会社を、何とか経営破綻させないようにしているのは、ただ、その会社のためだけなんかじゃない。実は、世の中の流通経済のためだった、と思わされることがある。
とっくに経営破綻しているのに、そこの社員は・・・、という説もあるけれど、もちろん、それまでの業績悪化の原因は追究しなければならないけれど、それよりも先に、国民への影響、日本全体、あるいは外国も含めて、その影響を考えて、その会社を維持させなければならないこと、多いだろう、と思う。
大局的な視点をもたなければならない。
いつだって。
それは、ビジネスとしての経営だけでなく、というより、私の場合は、将来も含めた、指導の方が、かなり大きく私の気持ちを占めているのだけれど、かと言って、始めてしまった以上、社会に責任があるわけで、しかも将来を担う若い世代を世の中に送り出す仕事なので、絶対にいつも教師が勝ってしまうとはいえ、経営の面からもあれこれ考えずに済まされないことくらいはわかっている。
そんな自分をちょっと何とかしなければ、教師そのものを続けるために勉強を始めたのである。
いや、そのころ、プライベートでいろいろ考えなければいけないことを、ほんの数日、そこから逃げるための口実を作って、初めて会合に出席したのが、その、本を購入した直後だった。
ご自身でもおっしゃっている、稲森さんとは対極的な考え方の先生のセミナーだった。
何をするのか、わけもわからず、そして、だからこそ、自由に振る舞えた面もある。
要するに怖さを知らなかった。
別にその後、怖さを知ったわけではない。
第一、どこに行っても、私は流されない。
何を見ても、何を聞いても、何を知っても。
自分の価値観と違うものが繰り広げられて、それに対して、感覚的になんだか違う、と思ったとしても、思考の面で、役に立つなら、結構そこだけ受け入れて、自分の中に工夫して取り入れて、でも、絶対に自分の根幹が変わることはない。
勉強していたから、だから、いろんな騒ぎの中で、生徒さんたちをしっかり守れた面があった。
チェリーは、新型コロナウイルスの騒ぎの中でも、何とか指導を続行できた。
むしろ学校がお休みの間は、毎日本当に忙しかった。
そのセミナーを受けていたからこそ、すぐにオンラインの授業に切り替えることができ、学校に行けない不安を抱えている生徒さんへの指導もできた。
オンラインの指導を受ける生徒さんの数が増えたから、逆に教室に来る生徒さんが密にならずに指導できた。
学校がお休みだったから、受験指導はむしろ例年より前倒しの形になった。
ただ、最近、私の気持ちは、軽くなると同時に、ちょっと重い。
たぶん、その勉強から離れるだろうな、と思っているのである。
離れなければならない、というわけではないけれど、重たくなっているのである。
たぶん、ここまで、というラインが来ているのだろうと思っている。
感覚的には、結構無理していたし。
人生の中で、ときにこういう時期がやってくる。
自分にとっては次に行くサイン。
もう、学べたから、次に行きなよ!というような・・・。
過去にもあった。
真剣に学んでいる。
師と仰いだ人のおっしゃることを真剣に学んでいる。
もう、昨日まで、必死に。
でも、ある日突然、気づく。
あ、ここまでなんだな。
もう別れるときが来てるんだな。
そうして、それなりの成果もある。
それはわかってる。
ただ、どこかで私淑していたときの純粋な想いが残っていて、それが裏切られたようで(正直、勝手に裏切られたことにしているのだけれど。)、その間の自分の純粋な想いをどうしてくれる・・・、というような、もし、言葉にするなら、そういうことになりそうな、気分なのである。
それってさあ、しっかり学ばせてもらって、しっかり成果もあって、そんでもって、自分が元に戻る?あるいは、次のステップに行っていいよ!ということなんじゃないかなあ・・・。
実は思い出している。
娘を身籠っていたとき、お姑さんの言うことを一生懸命聞いて、一生懸命お義母さんから学んで、娘が元気に生まれたら、喜んでくださる、と一心に努力して、それで、丸々太った子豚のような娘が生まれて、夫のいないところで、かなりがっかりしてしまう表現を聞いて、どうしようもなく切なくなったこと。
お義母さんが、私と娘のことを思って言ってくださっている、と信じて、過ごした日々は何だったんだ!
でも、結果は素敵なものだった。
元気で明るくて、目が合うとにっこり笑ってくれる娘・・・。
お義母さんのおかげで、可愛い娘が、元気な娘が生まれた。
でもね、そのときの、信じていた純粋な自分の気持ちは、いったい何だったんだろう・・・?と思ってしまった、まだまだ幼かった自分の想いを思い出してしまった。
それに女同士は、そんな風に言い合って、人間関係を保っていくようなところがあるけど、ちょっと自分がそういうタイプでなかっただけの話だし・・・。その件は。
結果は出ているんだけど、その間の、信じてた自分を返してほしい・・・、って、本当に子どもだよなあー。
いいじゃん!
相手の動機なんて。
第一、相手の動機に、純粋なものが全くないとも言えないわけで・・・。
自分が結果出せばいいに決まってる。
でもさあ、自分は、変に純粋に一生懸命だったよなー、とちょっと裏切られた気分なんだよなー。(笑)
そうじゃないって。自分が成長しただけなんだって!
と納得させる日々なのである。