仕事が事柄になると、それは全然面白くないものになる。
私は指導をしていると、本当に楽しい。
それが、成績にもつながっていく。
成績以前に、生徒さんの勉強やほかのことへの姿勢が変わって行くのを感じる。
教室での私の言動のすべてを生徒が見ている。
でも、例えば、それが、一つ一つを分析しすぎて、人を見つめる目を忘れてしまったら、生徒さんや保護者との心のあり通いがなくなってしまったら、つまりは気持ちを理解しようとできなくなってしまったら、それは、本当につまらない営みになってしまう。
いやいや、気持ちにばかり寄り添って、勉強してもらわなければ、それこそ成長がないわけで、そのために、私にとっては、ある意味都合よく受験があるわけである。
人を育てる契機は、勉強でも、運動でも、音楽でも、美術でも、なんでもいい。
私は、勉強面で、生徒さんとお付き合いしているので、どこでどうミスをしやすいか?とか、勉強時間の配分を考えて努力してもらうために私はいる。
ただ、勉強をきっかけにして、どうすれば伸びるか?
自分という人間を成長させることができるか?
ということに、一生懸命になってもらいたいのである。
価値観の違う人と、しばらく、結構濃く付き合ったことになるのかな?
それがどうしようもなく辛くなってきた。
別に情がないわけではない。
でも、分析ばかりの話についていけなくなったのである。
人間関係、って、分析では無理。
人を見つめ、人を知らなければ、構築できない。
代替に何かがあるから・・・、という付き合いは、長続きしない。
親御さんも、お子さんの成長とともに、見守る目とともに、ご自分も成長され、しあわせになっていただきたい。
だんだん、私は、お母さま方よりも年配、ということの方が多くなってきた。
一応、いろんな経験をしてきた。
だから、ちょっぴり受験期のお子様を見つめる目から、親御さんも一緒に受験を乗り越えて行っていただけることを望んでいるのである。
受験は、一大事。大きな事柄。
でも、その中身には、どんな声掛けをするか?
どんな心の持ち方をするか?
中身にはいろんな要素がある。
成功(長い人生の中のことなので、何をもって成功とするかは難しいけれど、ここでは一応、受験に限っての話とさせていただくとする。)という観点で言うと、成功しやすいのは、自分の心を自分でコントロールできる生徒さん。
誰だって、この時期は揺れる。
でも、もっと言うなら、学校の先生方は、今ごろ、本当に毎日大変な時間をお過ごしのことだと思う。
ほんの少し、本当にほんの少しだけ、学校の先生、大変だな、という視点をもつだけでも、少し気持ちにゆとりが出てくると思う。
しんどい気持ちと闘って、揺れる心と闘って、なんとか平静に保とうとする努力ができるかどうか・・・?
実は、先日、高校生の生徒さんと話していた。
思い出話。
私の高校受験。
美術がものすごく足を引っ張って(当時の大阪の公立高校の受験は、実技4教科の比重がとても高かった。4教科ができなくて、門前払い、みたいな話はよくあった。)、レベル的に、次の高校なら安全だけれど、母校を受験するのには、大反対された。
学年団、担任を除いて全員反対。
先生に反抗したことのないおとなしくて目立たない生徒が、なぜ、そんな無謀な受験をするのか理解できない先生方に、結構イヤミも言われた。
いやいや、これには担任の先生が大きく絡んでいて、人のせいにするわけではないけれど、それこそ、担任の先生に背中を押されて、半ば無理やり受験させられたようなものだった。
その防御策として、私立二校も受験させられていたし・・・。
なんで?と訊きたいのは私の方だった。
何でいい子で優等生で通った私が、卒業前に、こんな大それたことをさせられて、先生方に注目されることになったのか・・・?
目立つの大嫌いの私は、本当に困ったし、先生方の態度も結構大変だった。
よく先生、心を保つことができましたよね・・・、とKちゃんが言ってくれた。
けど、仕方ないよな、と不満に思うこともなかった。
事実だから。
危ないのは事実だったから。
それが美術が原因であれ、とにかく危なかったから。
もう、父に頭を下げて、「もしものことがあったら私立に行かせてください。」とお願いし、もう、最後まで責任を取ることにした。
女子が定員割れに決まった後、妹が水疱瘡になった。
潜伏期間を考えると、ジャストに受験の日にぶち当たる。
もういいや、三年間頑張って、そうか、京都に通うのか・・・。
女子高のブレザー、似合いそうにないなあ・・・。
と思いながら、でも、少しずつ勉強を進めていた。
周りの騒ぎも、後になって、ああ、結構大変だったんだな、と気付く有様だった。
受験の日、何やらフラフラしながら問題を解き、得意な国語も、あんまりピンと来なかった。
受験の二日後、お腹にぽつぽつ湿疹が出始めた。
熱がありながらの受験をしていたらしい。
合格発表は、母だけが見に行ってくれた。
お布団の中で、母が帰り道、私があまりにできなくて、定員割れでも落ちてしまった、と悲しそうにしている姿が目に浮かんだ。
母が帰ってきた。
合格やったよ!
その時、母が履いていた赤いスカートの色が今でも思い出される。
母は、不思議と落ちる気がしなかったそうだ。
入学したために、その後経験したことを思うと、一時は、入学してしまった我が運命を呪ったが(いろんな意味で。)、その後教員なり、今、こんな形で教育活動をしている身になると、ああ、入学する運命だったんだな、とつくづく思う。
父は、女子高に言っても、もう一つの公立高校に行っても、当時朝寝坊だった私のことを気にしていたらしい。
母校は、20分で行ける最も近い高校だったから。
運命が変わった。
もっと遠い学校だったら、私はブラスバンド部に入ることもなく、さっさと帰宅部だっただろうし、そうそう自分を鍛えることもなかっただろうと思う。
本当に鍛えられた。
本当に。
あそこで、自分の人生変わったよな、と思っている。
消極的だった私が、おっとりしてはいるものの、どこか行動力がある、と言われるようになったのは、母校のせいだよな、と思っている。