本の読み聞かせ―楽しい時間。でも個性はあります。

私は小さいころから本を読んでもらうのが大好きだった。

母がよく絵本を買ってくれて、読んでくれたからかもしれない。
今から思えば決して高価な本ではなくて、むしろ粗末な装丁の本だったのに、それは想像の世界へとはばたかせてくれるのに十分で、絵本の中にある商店街の端っこを見ては、その向こうを想像して、なんとか見えないか?と思って事もあった。

文字の本は、最初は外国文学が圧倒的に好きだった。
日本文学が、今の言葉で言うならちょっとダサく感じられた。

しばらく日本文学より外国文学の方が好きな時代が続いた。
それが、小学校の時位に、出会った、壷井栄の「二十四の瞳」を読んで、初めて、自分の読書が日本文学に偏っていたことを知った。
それまで、なぜか外国文学ばかり読んでいた。
それから、日本文学にのめり込む時期が来た。

中一では芥川、中二では太宰に惹かれた(ただし、芥川は作品も人も好きではるが、太宰は、そばにはいてほしくない。)。
中一から中二に掛けての、あの芥川中毒は何だったのだろう?

大学三回生の頃、あることがきっかけで太宰にハマった。
その他大好きになった作家はたくさんいる。

しばらくして子育て時代。

娘は、本の読み聞かせをしても、『大きなかぶ』と『てぶくろ』だけが大好きだった。
あの繰り返しが好きだったのか?
歩いていてもいきなり「○○しても抜けませ~ん!」と両手を頭の上で丸くして、言っていた。
初めは何を言っているのかわからなかったけど、ある日、「ああ、『大きなかぶ』のことなんだな。」と気付いた。

美学的に、美しい作品なのだろうと思う。
あの単調な繰り返し。
みんなで引っ張ってもなかなか抜けない大きなかぶが、最後に小さな非力なネズミのおかげで抜ける、なんて。

「てぶくろ」は、また少し違うけど。

あの繰り返しが子どもには面白かったのだろう。

でも、私が好きだった『だるまちゃんとかみなりちゃん』や、『ぐりとぐら』や『ひとまねこざる』(おさるのジョージの気持ちがよくわかるくらい、私も好奇心旺盛である。思わずジョージには共感してしまう。)には関心を示さなかったので、

ああ、この子は本が好きではないのかな?

と思っていた。
それまでとにかくなんにでも興味を持っていたのに、絵を描き出してからは、娘の関心はすっかり絵の方に行ってしまったから。

一方息子は、絵本の読み聞かせがないと眠れない、というくらいに、読み聞かせが好きだった。

でも、結果的には、二人とも本を読むのが大好きな子になった。

あのとき、娘を本の嫌いな子、と思い込まなくて良かった。

娘は芸術家肌。私にないものをいっぱいもってる。
息子は、志向が私と似ていた、とはいえ、息子はスポーツが大好きで、私の知らない楽しみを知っている。

子どもはいろんなものをもって生まれてくるし、出会いによって開花するものも、あるいは、人との出会いによって出会うものもある。

私たちは、生徒さんとの出会いの中で、生徒さんたちの人生の中の登場人物となる。
できることなら、人生の中での楽しみにつながる出会いになってほしい。

知への出会いは、人生をたいそう豊かなものにしてくれるから。