あなたがいなくて寂しいです、という想い。

何年か前に、ある人の勧めで、
一泊でいいからどこか出掛けてきたら変わるから。
ということで、1人で急遽温泉に出掛けた。
そのときに毎日顔を合わせているある人から、
先生が高岡にいないということが寂しかった。
と言われた。
それを本当のことだとして、私がたかが一泊して高岡にいないということを寂しいと思ってくれる人がいらっしゃるのだな、と思って、不思議だった。

そのことをふと思い出してみて、逆に、誰かが高岡にいないといって寂しがることがるだろうか?と考えてみた。
それほどに重要な人がいない、ということではなくて、それよりも、誰かに対する責任感が強くて、そんな寂しいなどという想いになっていられないのではないか?と気付いた。

正直、誰かがいなくて寂しい、などという想いをしてみたい。
若いころは、単身赴任が始まった頃こそ寂しく思ったけれど、その後、その生活が慣れるにつれ、一緒にいると、どれほどれほど手間が掛かっていたのか?ということに気づいてしまった。
単身赴任が始まったその夏、私は北陸に来て初めて、夏休みに本を10冊読むことができた。
中学時代の国語の先生は、夏休みに100冊羊毛と思ったけど、45冊しか読めなかった、と言っておられたことがあった。
それを当時はとんでもないありえないことと思っていたけれど、そうそう無理な話ではないと思うようになって、でも物理的に読めなくなった。

自分が寿退職した学校の先輩には、
お前、退職したら、本が読めると思ってるやろう?
とからかわれた。
遊びに行ったときも、
お前、本読んでるか?と訊かれて、退職したその次の一学期には一冊も読めていないことに気づいた。
それを予言するように、家庭に入ったら、そうそう本が読めないものだ、と聞いていた。

その後、あまりに手が掛かることで、寂しく思っている暇もなく、出張でも単身赴任でも、私は意外にホッとしていたのかもしれないな、と思い始めた。

だから、誰かがいなくて寂しい、というよりは、世話する人がいるかいないか、あるいは責任があるか否か?ということの方がいつしか大きくなっていたように思う。

小さいころは、従姉が来たら、帰るときに、
まゆみが寂しがるから、わて、辛うて・・・。
とおばあちゃんが言ってくれるほど、人懐こくて、お兄ちゃんお姉ちゃんがいてくれることが好きだった。
人が好きだった。
商家で、人の出入りも多かったからかもし入れない。
まだ嫁入り前の叔母の部屋には素敵なコロンが置いてあり、若いお姉さん独特のいい香りがした。
赤と白のギンガムチェックの覆いのある叔母の小さな本棚をそーっと開けて、素敵なものを見ていたら、叔母にバレて怒られた、というようなこともあった。
思えば小さいころの大人数の家にいた頃、私は、ちょっとしたことで寂しがっていたように思う。

京都に近い大阪北部の家に引っ越してから核家族となり、寂しいなどと言っていられなくなった。
同じ大阪でも市内とは全然雰囲気が違い、友達付き合いも全く変わってしまった。
それまで楽しんできた遊びも変わってしまった。

いつから寂しいと思わなくなったのだろう。
私がいなくて寂しい、という言葉はたくさん聞いてきたような気がする。
そんなこと考えるなんて、私は相当暇人なのかな?

私がいなくて寂しい、と言ってもらえるということは相当にありがたいことだし、心温まる言葉でもある。
でも、逆に、誰かを思って寂しい、なんて、最高に素敵な思いだな、と思うのである。
寂しいかもしれないし、切ないかもしれないけれど、その誰かがいなくて、強烈に寂しいとは素敵なことだ。
なぜなら、そこには強い愛があるからだ。