京都に行きたいな。ー師匠のポッド・キャストを久しぶりに聴いて。

どうも同じ関西でも、ふるさと大阪よりは、学生時代に通った京都の方が好きです。
正直兵庫も奈良も和歌山も滋賀もよくは知りません。滋賀は野球応援に皇子山球場に行った、比叡山に行ったことがある、程度のお付き合いです。
奈良もお寺巡りを数回したり、教員時代に引率や、定期考査の折に文学歴史散歩を兼ねて、先輩の先生方に連れられてあちこち回ったくらいで、よく知らないのです。

そこで京都。
どうも、私は、自分で、自分の足で開拓した場所が好きなようです。
両親から与えられた場所とかではなくて、自分で選び取った場所とそれにつながって出会った場所。
本当は京都になど行きたくなかったのです。中途半端に都会やし、そうかといって都会でもなく、ちょっと言ったら緑豊かな自然やし。だいたい大学の下見に行ってみたら雪が降っていて、受験せんといたろか、とまで思いました。
大学の下見に行くまでは、日本全国大阪だと思っていたような気がしています。知識としていろんなところがあるのは知っていましたが、感覚的な問題として。

京都に通い始めて3か月も経った頃には私は京都のとりこになっていました。
鴨川の流れにもちょっと行ったらある緑にも、そして大阪よりも物価が低いところも、住んでもいないのに、お気に入りになる要素は満載でした。
正直デートする場所には事欠きませんでした。
自転車に乗せてもらって(2人乗りは禁止でしたが。)、都大路のあちこちをめぐることができました。
歩くのにもいいところ。歩くのに疲れたらバスに乗ればいいし。
何より学問の街です。

先日、久しぶりに師匠のポッド・キャストを聴いてみたら、なんと師匠は京都のイタリアンに行かれたとかで、
いいないいな、と思ったいました。
ただ、京都でイタリアンねえ。という感じもありました。
ケーキ屋さんもしゃれたところがありますし、カフェもなかなか。
パン屋さんも、全国一パンの消費量が多いだけあって、おいしいパンが売られています。
私はお買い物も京都の方が好きです。大阪だと戸惑ってしまう何かがあります。規模なのか、雰囲気なのか。
もうなくなってしまったけれど、四条河原町にあった京都四条の河原町阪急が大好きでした。
東京で言う山の手のお嬢さんとお母さんが買い物に来る、というコンセプトだったらしいのですが、私にとってはなんだか行きやすいイメージがありました。そんなおハイソな百貨店を、庶民的な百貨店だと勘違いしていた私のふてぶてしさがここに表れているような。(笑)
そのお向かいのカネボウも好きでした。学生が雑貨を買うのにちょうどよくて。
河原町を歩いていると、きもの屋さんでアンケートを頼まれて、20歳くらい?と言って、可愛い!と言われたのに気を良くするくらい、垢ぬけていない学生でしたが。(笑)

最近、どこかボーっとしていた学生時代を具体的に思い出すことが多くなりました。
人間って、どうしてこうも記憶にまでバイアスがかかりやすくなってしまうのだろう・・・?と思うことが多いのですが、最近、一つ一つ思い出してみると、結構楽しいことがあったよなあ、と思うのです。
友人との一コマ一コマ。ちょっとお茶していたときの誰かの一言。その雰囲気。
もしかしたら、その後のできごとの大変さに吸収してしまって、楽しくない、自分を鍛えていた方(これだって自分の選択ですが。)ばかりを思い出していたりしています。
徹夜でレポート書いていた、とか、どの授業の成績が良かった、とか。
そんな風ではなくて、ちょっとしたベンチに座っていたときの友人の言った言葉とか、風の雰囲気とか、友人が来ていた服だとか、友達が言った、あなたがこの服を着ているのを見ると、ああ、夏が来た!という感じがする、と言ってくれたくらいに私を意識に入れてくれていたことが嬉しかったこととか。
学生時代は○○だった、ということもできるけれど、誰かとのその瞬間瞬間の言葉のやり取りや感じ。雰囲気。風の香り。
そんなこんなを思い出すと、ああ、それはそれは素敵な時代だったなあ、と思い出します。
ときに思い出しても恥ずかしくて、キャー!としゃがみこみたくなるようなことも、きっと誰も覚えていないだろうな、と思うようにしています。

学生時代を思い返してつくづく思います。
どこにいても、どの年代を生きるにしても、誰かが元気になるような自分でいたいな、と思います。
ちょっとおこがましいかもしれないけれど、誰かの記憶の中に、自分が嫌な思い出としてではなくて、できることなら明るい思い出の中の登場人物でいたいな、と思うのです。
そして最近、自分が、厳しかった登場人物ではなくて、優しかったり、柔らかかったり、温かかったり、明るいイメージの時を思い出すようになっているのを感じるのです。