人のしていることに気づかないほど、自分のするべきことに集中するということ。

今日、ある生徒と話していて、普通怒ったり、何か気付いたりして不快になったりすることに、全然気づかないで、自分は全く違うところにいて泰然自若として、自分のしなければならないことに取り組む子もいるのだなあ・・・、と思った。

思えば私もそうだった。周りが気にしていることについて、
エッ!?そうなん?
ということがどれほどあったのだろうか・・・?自分の目の前にあることに一生懸命、だなんていいものではない。ただただ必死で、ほかの人の言動に気づかないこともあった。
人の悪意になんて、ほとんど反応しなかった。いや、気づかなかった。
だいたい、この世に感情論が存在するとも思っていなかった節があったので、なんでも理詰めで、整合性のみを求めていて、自分なりに辻褄を合わせて終わり、になっていたことが多い。
それでも人が怒るのなら、自分のどこかに間違っているところがあるのだろう・・・、と思っていた。

誰かと対立することも好まなかった。
だから、先日、どこかで、もっと対立したり、大喧嘩したりしてみたらよかったかな?と書いてはみたけれど、そんな大騒ぎなようなことはどう考えてもできない。
それに、誰かの心を煩わせる、ということも好きではない。
自分のことで時間を取らせたり、お手間を掛けたりするのも好まない。

私は私。
ほかの人のことを気にしている暇がないくらいにやるべきことに集中せよ、とはよく言われたものだった。
そもそも人のことが気になるということが、手元がお留守、と言うことができる。
だから、誰かのことを気にするのではなく、自分のことに一生懸命な生徒って、頼もしいなあ、と思うのである。

とはいえ、人に介入したくない私が何の因果か、生活指導部に配属されて、仕方なく生活指導をさせられた。
取り締まるのは大嫌い。
でも、指導するには言葉を持たなければならない。
その言葉を探して、そして、その言葉がどこからくる言葉なのか、吟味して発してきたような気がする。
同じ言葉でも、発する人によっては全く違うものになる。

それぞれに尊厳があり、ほかの誰にも冒すことのできない人格があり、それでも年配者が言わなければならない言葉がある。
いつもバランスを考えて、ちょうどよいところを探っていきながら、その実、そこには行きつく先も、その結論も出ないものであって、一生懸命にこれでいいのか・・・?と考え続ける中でしか、ちょうどのところは出てこないと思う。

若い生徒さんをお預かりしながら、どこでバランスを取って、言葉を掛けるか?ということを考え続けている。