嫌いな自分ーちょっと俵万智の歌を思い出す。

ある人の言葉が、私に何か影響があったとすれば、ああ、私は潔くないな、ということだった。
いろんな相談をお受けして、よくあるのは、周りの人に迷惑になるから、だから、そういう決定はしない、というものがある。
どう考えても、その人にとってメリットのない生活を続けるのか・・・、と客観的に見てしまう。
けれど、周りの人のことを考えて、そうはいかないことがあるのもわかる。

割と主体的に決めてきたとも思われる私だけれど、痛いところを突かれるのは必至でありながら、ある方面では私は非常に受動的で、それは、まあ、ズルさにもつながるな、と思うことがある。

あなたが決めた。
あなたが言ったから。

こういう表現はしないようにしている。

同世代だからか、俵万智さんの短歌には、ピン!と来るものが多い。
いや、経験した場面の心情というのではなくて。

抱かれるきっかけズルき我にして「あなたが決めてください」と言う

という短歌で詠われている気持ちがよくわかる。
そこまで愛情が、男女で平等だとも思っていないけど。
正直、そんな場面に遭遇したことはないけれど・・・。

それから、
妻という安易妬まし春の日の例えば墓参に連れ添うことの

という歌の気持ちにひどく共感したのは、その墓参に連れ添う側の大変さをつくづく感じていた頃だった。

でも、生徒たちと若い話をしているときに、意外や意外、私は結構ズルいことをしてきたのではないかな?と思うようになった。
たくさんの人と付き合ったわけでもないし、結婚を考えない恋愛などしたこともない(一度はしたかった、と暴れたことはあったけど。(笑))

正直、心の底から女の子の気持ちにしてくれたのは、誰あろう、我が小さな息子だった。
彼ほど私のことを可愛い女の子扱いしてくれた男性はいなかったから。

ズルい、という意味は難しい。
私は、ある人に言わせると、ズルい、という言葉とは無縁だし、私のズルさについての告白を聞いた人は、まあ、女性だしね・・・、と言ってくれたけれど。
大学時代の先輩2人に、「お前は、あ、こいつ、俺に気があるのかな?ということを全員にするやろう?残酷な奴や!」と夏季合宿で怒られたことがあった。
男子9割の大学で、単純に、高校時代に恵まれなかった私は、たくさんお兄さんができたようで嬉しかったし、何より礼節を重んじる部活で、単純に挨拶をしていただけだった。
第一、私から思ってもらって喜んでくれる人がいるという自覚がないので困る。

なんでそうなるん?
当時の私は、イマイチピンと来ていなかった。
最近、生徒と話していて、あれこれ言われて、ああ、そういうことか・・・、と気付く始末。

えらく若い話だけれど、こういうの、ズルい、っていうのか・・・。
などと私は、自分の中のズルい、ということを認めた。

だから、違う分野でズルい人がいても、それはその人なりの気付かなさ、というのもあるかもしれないなどと考えだしてもいるのである。
ズルくなく生きようとしてきた自分の意外な一面。
知らなかったでは済まされないな、と思っている。