ここ数日、母と過ごしていて、私とは違うというところに気づいている。
今更、という感じではあるけれど。
やはり私は呑気なのである。
何かを家に忘れても、歌を歌っているらしく、忘れ物をしたら取りに帰ったらいいし、別に、そんなに困らない・・・、と思っているところがあるらしい。何かあったら対応すればいいと思っている節がある。
それから、母は、よく、私は○○だから、○○が遅くて、とか、○○だから、何々ができない・・・、などという表現をするのである。
誇り高い人だし、まあまあプライドもないではなさそうで、何かをできるということに大変に意味を感じるタイプなのかなあ、と思っている。
私が健康で、割と何でもさっさとやってしまうタイプだから、そのイライラがわからないのかもしれない。
そういう意味では私は自分を信じているとも言えるのかもしれない。
兼好法師の言う、友にするにわろきもの、の代表かもしれない。
健康な人は、そうでない人の気持ちがわからない、というから。
ただ、大学時代、私は、通学生で、部活のみんなは下宿生だったから、家族といるという制約があることは感じていた。
父も母も、良識的に厳しい人だったし、常識に反することは、青春時代であっても、ほかの子が許されていることを許されていない面があった。
どこかあきらめに近い気持ちがあったのだろう。
私もつい、友達に条件を話してしまうことがあった。
私、神経質だから、とか、家は○○だから・・・。
これは、たしなめられたことがある。
誰にでも事情はある、と。
いろんな事情や、条件の中で人は生きている。
その事情や条件ばかりを言っていては好かれない(ある程度話して、周りに助けてもらうことも必要だとは思うけれど。)。
それぞれに制約もあれば、自由過ぎる自由を持て余している人もいるだろう。
いわゆる、恵まれた、と思われている人が、その実、大変な重荷を抱えていた、ということもたくさん見てきた。
自分だけ、と思うのはよくない。
その条件の中でいかに自分の人生を豊かなものにしていくか・・・、ということが大切だと思う。
そして、できることなら、1ミリでもいいから進歩していくこと。
でも、イチロー選手が言っていたように、落ち込んでいるときにはどうするか?という問いの答えが、今よりもっと落ちないようにすること、なら、何だったら、1ミリ前進できないなら、後退しないように気をつけるだけでもいいのではないだろうか?
もう、高齢になった母が、私と同じくらいに行動できる方がおかしい。
そして、そのことを気にしても仕方がない。
なにかをするときに時間が掛かることも、なかなかできないことも。
でも、そのことに不足を思うより、今できることがあることを感謝する方がいい。
誰かにしてもらうことを迷惑だと思われるより、ありがとうと言って嬉しそうにしてくれる方が楽しい。
迷惑を掛けないように、というのは立派な心掛けではあるけれど、そうそう誰にも迷惑を掛けずに生きていけることはないわけで・・・。
ただ、いてくれる、というだけでありがたいことはあるわけで・・・。