私は何かがスムーズにいかない時には考え方の枠組みを替えようとします。
今を否定したって、現実としての今は変わりません。
ならば今が自分の人生にとってどういう意味があるのかということについて見方を替えようとします。
小さなことでも人は憂えてしまうものです。
ご近所さんのちょっとした表現。家族の態度。職場の人間関係。
それは決して小さいこととは言えないことなのかもしれませんが、それでも、その今の苦しさやちょっとした違和感を前向きにできるのは人間だからです。
生きていれば嫌なことも出てきます。悩みもします。
でも、大抵は困ったことってあまり出てきません。
今の自分が前向きな気持ちになって進むことができれば大抵のことは解決するものです。
若いころ、なんでこんな選択をしてしまったのだろう?と思う状況の時がありました。
ある人が自分にとってうまくいけばいい、という考えだったことに気づいたときにはびっくりしました。
さて、どうする?と思いながら、私は自分の日々が楽しくなることばかりを考えていました。
積極的に人の中に出て行き、その状況を愛することができるように工夫しました。
そのうち、その信じていた人よりも素敵に生きていることに気づきました。
そして、その頃には自分にとって愛する人たちだけは楽しそうに思えたのです。
復讐というと、なんだかおどろおどろしくなりますが、見返すのも相手を意識しすぎていてなんだか相手に縛られている感じがするので、何だったら忘れる、はいかがでしょうか?
自分にとって不都合だった人は忘れる。
もしかしたら忘れるほど冷たいことになるのかもしれませんが、自分の人生にとって思い返すことが不都合なら忘れる。
覚えていてもいいけれど、自分にとって良かったことだけ覚えておく。
忘れるほどにしあわせを目指す。
しあわせというのはそうそう難しいことでもなくて、日々の考え方によるものだと思います。
たとえば不器用な人より器用な人の方が良く見えますが、器用な人は何でもできるから、一つのことにありがたみがない場合もあります。
自分にはこれしかないから、というので一つのことを極めて行けば、素敵なことになります。
昔お母さんからお聴きしたことに、ある中学校卒業をしたお母さんの話があります。
自分の子どもにこう言って育てられたらしいのです。
お母さんは勉強はようわからんから、学校の先生の目をしっかり見て、教えてもらいなさい。
そのお母さんにとって、先生は自分の子供に勉強を教えてくれる素晴らしい人に思えたに違いありません。
私も、息子のスポーツ少年団の監督やコーチはとんでもなく素晴らしい人でした。
だって、親二人はスポーツに無縁でしたから。
素直にお母さんに言うことを聞いたのでしょう。
そのお家の息子さんは東大に入ったのだそうです。
私はこのお母さん、とんでもなく賢い人だと思うのです。
人間として、女性として、母として。
自分にできることとそうでないこととをはっきり見極めて、できないところはできる人にお任せして、その人の力を最大限に引き出して、我が子への力となるようにしているところ。
決して意図があるのではなくて、きちんと人の能力を認めていて、決して卑下したり競って嫌なことを言ったりしない。
素晴らしい内容のあるお母さまであると思いました。
私は若いころに聞いたそのお母さまのお話を心に留めてきました。
でも母としてどうであったのだろうか?
札幌時代ピアノの先生をずいぶん困らせてしまったような気がしています。
ピアノを弾けるなんておこがましい、ちょっと弾くだけの私が、専門的に音楽をされていた芸術家の先生に対して随分と要求がましい思いをしていたのではないだろうか?と今でも反省しています。
親だから、子どものためになることだったら何でもしたいし、そうしてしまいがちです。
それでもどこかで頭を上げていたのではないか?態度でそうではなくてもこころの中で我が子の成長を妨げるようなことの一つや二つ、いえたくさんしてきただろうな、と思うのです。
そんな素敵なお母さまの足元にも及びませんが、それでも自分の人生をより豊かにできるよう、考え方のフレームだけは常に変更できる自分でありたいと思っています。