白鳥と言うと、優雅に泳いでいるように見えながら、水面下では一生懸命水を掻いている・・・、ということをよく思わされるし、ついつい、出家したがっている、紫式部の思いの描かれた、『紫式部日記』の一節を思い出してしまう。
天下一の栄華を誇る、藤原道長のそばにいて、その娘である彰子に仕え、栄華の真っただ中にいながら虚しい気持ちでいる式部の気持ちに思いを馳せてしまう。
一方、しあわせというのは、辛いに一本足したもの・・・、と表現された方がいらして、ああ、しあわせには、辛さが含まれているのだなあ・・・、と納得した次第である。
若いころの苦労は、今となってはいい思い出になっているし、当時、もう、生きていくのも嫌になるくらい虚しさに襲われ、ただただ可愛い子どもたちのために一生懸命だったこともあるのに、今となっては、その頃の自分に、いやいや、今の苦労が実るときも来るから、まあまあ、安心して、研鑽しなさい・・・、と人生の先輩よろしく言ってあげたくもなるが、若いころはそれこそ必死だった。
虚しくなりそうな自分。それこそ人生を投げてしまいそうになる自分と闘っていたこともある。
いったい、何のために勉強してきたのだろう?
同じ大学を出た夫は、大学の話をしてもいいし、職場の話をしてもいいのに、私は学生時代の話もかつて勤めていた学校の話をするのも厳禁。
そんなものないことにされていると感じていた。
札幌で、夫の代わりに出席した大学の同窓会で、グレーや紺色ののスーツ姿の先輩方や後輩の中で、ああ、こういう場もあるのだなあ・・・、とつくづく思った。
別に子育てが嫌だったのではないし、子どもたちは可愛かったし、ただ、今までしてきたことを、周りとのバランスの下に、ないものにされ、何にも役立っていないことに焦りを感じていた。
自分が勉強してきたことは、自分だけのものではない。
国からだって、つまりはいろんな人の税金も使って、私たちは育ててもらってきているのに、何にも世の中に返せていないようで辛かった。
職場復帰をしたのは、誰あろう、夫の言葉からだった。
と言うと、えらく、理解のある人になるし、周りからは、奥様の自己実現のために・・・、と評価を高めておられたのも知っている。
私の勉強のために、お子さんをプールに連れて行ってあげるなんて・・・、と言われたこともあるし、夫の他大学の友人のお母さまの、お嫁さんに対する愚痴を聞いていたら、なんと夫には、その友人から、「まゆみちゃん、うちのおかんから、説教されててんてな。」と言われていた、というようなこともあった。その実情を、実は、先輩のお嫁さんに対する愚痴を聞いていたのですが・・・、と言ったらどうなるのだろうな、世の中って、勝手なものだな、とその理不尽さに驚き呆れたりもした。
言おうと思えば言えるけれど、言わないのが人間だし、それが品性と言うものだし、ある意味、そう言った先輩は、今から思えば、かなり笑える。(笑)
告げ口したら、そのお母さまがお困りになるだろうし、人の家を揉めさせていいことなどない。
ただ、自分のお家の人間関係のために、愚痴っておいて、よその人を悪者にするのはどうだろうか?
しかも、それが、当の愚痴った相手の耳に入っているとは夢にも思われなかっただろうな。(笑)
今なら、ああ、言うてはるわ・・・、となるだろうけれど、相手にするなの一点張りなのも、どうかと思う。
言ってくれるだけで、ホッとすることもあるだろう。
とりあえず、今となっては過去のことになってしまった若いころのあれこれは、世の中を知る、あるいは人間を知る、手立てになっている。
人間理解を深めてくれたのは、経験である。それも嬉しい経験なんて、ときにちょっと元気をくれるけど、そうそう大きく役には立たない。
辛い思いをしたときの温かい言葉や、してくださったことは覚えてはいるけれど、それが直接成長させてくれるわけではない。ただ、辛いことを通り抜けるための希望にはなるだろうけれど。
辛い時期があったからこそのしあわせがあることをたくさん経験してきた。
教師として、仕事をするうえで、じわじわと来る人間関係のあれこれは、今の私の中に、経験として蓄積されている。
だから、最近、人当たりがいいだけでは、信用しなくなった。
いつでも、どこかで客観できるようにしている。
辛い時期を乗り越えなければ、しあわせはやってこないのかな?
受験勉強がつらいもの、になるのかどうかはわからないけれど、勉強しなければ合格しない。
一生懸命に努力しなければ、お料理もうまくならないし、洗濯やお掃除だってそうだ。
人間関係のコツもそうだろう。
いろんな人を見てきたし、いろんなものを見てきた。
それを一つ一つ語ろうとは思わない。
ただ、誰かがしあわせになるのにつながるときには、どこかに残っている経験から学んだことを使わせていただきたいと思っている。