時折考えること


仕事柄、考えさせられることがある。
最近、「きっと、すごくいい人なんだと思うんですよ。」と表現されることが多かった。
ただ、友人や、プライベートの関係の人には、いい人でありたいし、それでもいいと思う。
ただ、、教師や、相談を受ける立場から言って、このままいい人であっていいのかなあ、と悩んでしまうことが多いのは事実である。

自分の生徒さんであったり、あるいはその保護者という関係になった時点で、いったん、私は、好き嫌いとか、合う、合わない、という考え方からスイッチを切り換える。
客観的に見るように努める。
あるいは嫌がられるかもしれないけれど、直感と分析も含めて、○○かなあ、とか、あれこれ、その、プライベートだったら、「もう嫌だ!」とさじを投げていそうな人間関係であっても、理解をしようと努める。
友人は、友人。プライベートの関係者も、自分が共に人生を歩む中で関わっていけるかどうか、ということで判断すればいい。
ただ、この発言は、いくら何でも、教師という立場であっても、職業人としても人間としても、これは許していていいのかなあ、という場面に遭遇することがある。
そんなとき、どうお伝えしたらいいのか迷うことがある。
私と保護者の方は、共に生徒さんを伸ばしたい、という関係なのに、ある一線を越えて、プライベートの関係になるわけにはいかない面がある。
立ち入られてしまっては困るし、当然、何かの比較の対象になってもいけない。
あくまで、私は客観的な人間でなければならないのである。
教師は、生徒さんに対して、愛情を注ぐ人間であり、立場である。
もちろん、自分の経験が、何かに役に立ちそうなときには、正直使う。身内の出演者も何人かいる。出演料を払いたくはないから(笑)、出演していただいたことは言わないけど(当然個人情報に当たることは絶対に言わない。)
こういうとき、○○な気分になりますねえ、とか、自分の経験を話すけれど、それは、あくまで、自分の感情も客観した挙句のことである。

かつて、何人かの人に言われた。
「先生に甘えすぎていたんだと思います。」と。
それはいけない。私は、確かに、結構許容量も大きめ人間であるかもしれない。何を言っても怒らなそう、というイメージもあるだろう。
でも、そんな人間に全部任せたり、あるいは、ご自分の中の、何か美しくないものをただただぶつけられて、楽になったわ、というのは違う気がする。
愚痴をおっしゃるのはまあ、仕方がないだろう。
でも、攻撃されたら、多分、たいていの人は逃げるだろうな、と思う。
相手と離れる覚悟があるなら、なんでも言えばいいかもしれない。
でも、その覚悟もなしに、中途半端に批判だけをぶつけて、誰が一体聞いてくれるというのだろう・・・。

自分の人生は自分の人生。
自立して生きていく覚悟の中での、その人生をよくするための、教科指導をする教師であったり、あるいは話を聴く人間だと思う。
一応、みんな、専門家として生きているわけだから。

ちょっとだけ、預けるときの、あるいは人に話を聴いてもらう立場になったときのコツかなあ・・・。

それからもう一つ、些細なことで怒らない人間の、これだけは大事!というものに触れたら、おそらくは、もう二度と、同じ関係性には戻れないだろうと思う。

生徒を預けるにしろ、ご自分のご相談をされるにしろ、やはり、ある意味、覚悟が必要だと思う。
もちろん、保健室のような場、であったとしても、その人も人間。生身の身体を持った人間。
あまりの感情をぶつけられたりすれば、逃げることもあろうし、専門職の人だから、傷つけてもいいというものでは絶対ないと思う。

と言うか、自分はいいけど、そうしてたら、その人にとって、良くないよなあ、というときに悩んでいるような気がする。
一応、友だちなら、それは、今の状態だったら、しゃあないなあ、で済ますけど、そうしてたら良くないよなあ、とやっぱり職業人的に悩んでいる気がする。
私を想ってくれる人は、私にとっての負担からしか、アドバイスしてくれないけれど・・。
仕事を全うしたいんだよなあ・・・。笑