音楽と私

かつてよく考えた。

本を読むことと、音楽を聴いたり、演奏したりすることと、どちらかを捨てなければならないとしたら、どっちだろう?

音楽を捨てることはできても、やはり、文学だけは捨てられないなあと思う。

人によって、自分の中心になる物、核になる物、一番大切なものというのはいろいろだろう。

抽象的過ぎるかもしれないが、私にとっては、一番大きなものは、広い意味での教育になるだろう。

でも、教育、って双方向なもので、実は教えている立場の自分が、本当は、一番教わっているという面があることは、否めない。

お料理も好きではあるし、裁縫も好きだ。

でも、絶対になくてはならない、とまではいかないかもしれない。

私の思う教育、とは、化学の触媒に近い。

自分は主人公ではない。

誰かに生きていきやすくなってもらうために、ほんのちょっとの何かをする。

それは、お話を聴くことかもしれないし、何か、ふと思いついた言葉を掛けることかもしれないし、実際的に、タッタッタッと動いて、何かの解決に役立つことかもしれない。
はたまた、お料理を作って、ひととき和んでもらうことかもしれないし、もしかしたら、歌ったり、楽器を演奏することかもしれない。
日本語や英語の文章を共に読むことかもしれない。

とにかく、何か、ちょっとしたことで、ほんのちょっとのことで、生きていくことが楽しいことになるような、何かがしたいなあ・・・、と思っているのである。

先日、実家の母に訊いてみた。
何があったら、明日、過ごすことが楽しくなると思う?
母は、率直に答えてくれた。
そうしたら、私は、ある実際的な提案をして、「そやなー。」と言ってくれて、嬉しかった。

そんな小さなひとときをたくさん重ねていきたいと思うのである。

先日買った、ブラームス曲集にある一番目の曲を練習しようと思ってみたけれど、一番高い音と一番低い音の間が広すぎて、手が届かない・・・。
CDを聴いてみて、あまりピンと来なかったけど、二回目聴いてみて、ちょっとわかってきたような、馴染んできたような気がした。
まあ、何かの音を省いてでも練習してみようかな。

別に浮気をするつもりではないが、ちょっと数年前に歌を習ってみたけれど、私は、ピアノより、好きかもしれないなあ。
打楽器をやっていたとき、木琴が好きだった。
打楽器であるが、叩いて、パイプの中を響いて返ってくる音の柔らかさ(柔らかいばかりではないが。)が好きだった。鉄琴も好きだったけれど(というより、大学一回生の頃、お前はバカか!と言われるほど好きで、本当にバカみたいに練習していた。)、自分の身体の中に音が入っていく感じが、木琴の方が好きである。
別に通じるわけではないのだろうけれど、声楽は、身体が楽器になる。
自分の中から出て、自分の身体に返ってくる感じが、とても好きなのである。
ピアノでは、そんな感じは、まだ経験していないのかもしれない。

ちなみに、国語の、文章読解や、英語は、時折、じわじわ・・・、あるいは、バーン!と衝撃的に、はっと気づかされるような、何かで撃たれたような感じがすることがある。
やはり、文章だけは捨てられないなあ・・・。