昨日の私は変だった。
というより、今日、気付いたけど、ここのところ、私は世間を見る目がおかしかった。
攻撃された余韻のせいである。
いつも人にしてもらったことを喜んだり、感謝して、人のしてくださったことから、心が通じる瞬間を経験する私が、そういうことをあまり感じられずにいた。
昨日、いつもなら、ここまでしていただいて、と思える状況や、気を遣ってくださって、と思えるようなことを、私は、ある意味僻んで、曲がって受け止めてしまっていた。失礼極まりない話である。
理由はわかっている。
今日、大阪におられるOさんにご相談したのである。
表現してみて、分かったこと。
あることが原因で、そう、理由なく、こちらに原因なく、感情をぶつけられた名残のせいで、周りの人たちが優しく思えなくなっているのである。
春にもあった。
正直、このような仕事をしている私にとって、冬から春にかけては、良くも悪くも、人の感情をぶつけられやすくなる。
わりと耐性のある方だとは思うが、人のキャパにはそれなりに限界がある。
春にも、人が優しく思えなくなったことがあった。
誰にだってある。
今日、少しゆっくりと眠った。
そうしたら、少し落ち着いた自分がいた。
よくよく考えたら、結構な負荷を自分に掛けていて、よいことの方のみに目を向けようとして、自分が傷ついたり、辛くなったりしていることから目を背けていた。
まるで、そのまま進めないよ、と言われるみたいに、気付け、気付け、と言われるみたいに、自分のおかしさに気付きかけて、Oさんに電話した。自分が引っかかっていたことに気付いた。
やっぱり周りの人のおかげで気付いた。
人間って、結構、そういうことやってるんじゃないかなあ、と思う。